ゆたかとエグモント

デンマーク エグモント教員片岡豊によるWEB日記
2007/02
21

もまたまたテーマ週



またまた、テーマ週が始まりました。僕は担当役割がないので、のんびり。おまけに今日は吹雪なので、学校にも出ずに家に閉じこもっています。やっと一息つけたところで、一番の関心ごとの自立支援制度のことについて、お勉強を開始。前々から予告していた続きを書き始めたところです。
まずは、それを掲載することにします。そして、それと一緒に同僚のミケエルの書いた記事を掲載したいのだけれど、どこに掲載したら善いのか分からないので、同じく、このブログにいくつかわかて連載することにします。お楽しみに。

その前に、かおりさんを悔し泣きさせてしまった事件についてコメントを。とてもショッキングな取材だといえるね。僕からみると施設や行政の責任者にその原因を求めるべきだと思う。もちろん、政治家は言わずとも、公的部門の最高責任者だから、大臣は即刻、首にすべし。(と、まあこのあたりまでは、かおりさんとも意見があうことだろう。)意見が分かれるとすれば、Socialpaedagog=ソーシャルワーカー=俗に言うペダゴーグの責任問題かもしれない。3年そこそこ(失礼、かおりさん)の教育を受けただけで、一人の人間と上手に裸で向き合うことを学べるかといえば、それは怪しい。少なくとも僕はエグモントで10年になるけれど、まだまだうまくできない。もっとも、教育者としても、あるいはかおりさんのようにペダゴーグとしての専門教育を受けていないけれど。

次の言葉はデンマークの哲学者のキルケゴールの言葉で、福祉の分野で働いている人は必ずどこかで見たことがあるはず。かおりさんもペタゴーグ養成学校の授業で、必ず目を通していると思う。

「支援術」について − キルケゴールの言葉 (段落が崩れて読みづらいのはご勘弁を)

介助者と介助されるの者の関係は、次のようであるべきだ。つまり、一人の人を決
まったところに導くことに本当に成功するためには、彼がいるところを見出し、そこ
から始めねばならない。これがすべての支援術の秘密である。それが出来ないもの
が、他の人を助けることができると思うことは、思い込みに陥っているのである。何
故なら、他の人を本当に助けることが出来るためには、私は彼より理解できなければ
ならないし、さらに彼が理解していることを私が理解しなければならない。私がそれ
を出来ないのであれば、私のより多くの知識は、彼を助けることには全くならない。
にも関わらず、私がより多くの知識を適用させようとすることは、気取り心か自尊心
にすぎず、彼のためになるというよりは、実際には彼に崇拝してもらいためである。
しかし、すべての真の支援は謙虚な心から始まるのである。支援するものは、支援す
る相手の下に慎ましくあり、そのことによって、支援することは支配することではな
く、奉仕することであることを理解する。支援することは、支配心をもつ者になるこ
とではなく、耐え忍ぶものになることである。支援することとは、あなたが、隣の人
が理解していることが何んであるのか分からない時に、まずは自分が間違っていると
いうことに耐え忍ぶ意志があることである。

Soren Kierkegaard. Brudstykke af en ligefrem meddelelse. (1858).

問題は、この高い認識を持ちながら、人はなぜそれに反した言動をするのか、ということだと思う。
自分の子供に対して、怒鳴りつけたり、しかりつけたりしたことのない親は、希ではないだろうか。僕は何度もある。そのたびに、敗北感を感じるのは、子供の方ではなくて、しかりつけた自分のほうであることは自明のこと。人はなぜ、そのような敗北感につながるような言動をするのだろうか。
自分の経験を反省してみると、やはり自分の置かれた状況にうまく対応できず、精神的・心理的に追いやられた状態になっていたからだと思う。逆に言えば、大半の人は、ある環境・状況におかれれば、認識とは丸反対の言動をとることがあるという、ごく「単純」な理由からだと思う。よって、一面では、この環境・状況を問題にし、他面では。外的要素に影響されやすい自分にも注目しなければならないと思う。

ということで、僕は今回の件は悔し泣きしている立場ではなく、まずは自分が頑張ねばと思っています。
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