ゆたかとエグモント
デンマーク エグモント教員片岡豊によるWEB日記
2005/12
11
自分で決めること
以前、よく子供たちから、「自分のことは自分で決めるからから、口挟むな」と怒られた。子供が大きくなるにつれて、「口を挟む」と反発されるので、正面からぶつかり合うことは避ける方法をとるようになった。
デンマークの育児は、自立心を育てるために、できるだけ本人に決めさせ、自分で決めたことは自分でするようにさせることに重きを置く。
ある保育園を訪問したとき、一人の保育士が数人の子供たちを前に、その日は何をするかを話し合っていた。庭で遊びたい、お人形遊びがしたい、いろいろ案が出てきた。最後に、皆で絵を描こうということに落ち着き、保育士が紙と色鉛筆をテーブルの上にそろえ、それぞれ絵を描きはじめることになった。保育士が数十本の色鉛筆が入っているケースから5種類の色を選んで、テーブルの上におき、昨日訪れた公園のことを描いて見ましょうと提案した。子供たちは、それぞれの体験を思い出して絵を書き出した。
このごく当たり前の光景をみていて、保育士の育児のうまさに感心してしまった。10何種類ある色鉛筆から5本だけを選び、そしてテーマをきめてあげる。子供は、その条件の範囲で自分の好きなように想像能力を発揮させる。このように子供は、自分で選択し、実行することを学ぶ。自立心の基本的条件の一つだ。
ところが、自分で選択し実行することが困難な人もいる。僕なんかは、そのよい例だ。大きなスーパーに買い物にいくと、棚にはほしいものが沢山ある。あれもほしい、これもほしい。店の中をうろうろ歩き回れば回るほどほしいものが出てくる。生理的に眩暈を感じて、何も買わないで外に出てきてしまったこともある。まるで僕の人生そのものだ。人生は、僕にとってはあまりにも多すぎる選択肢がある。何を選んでよいか分からない。そう感じるときがよくある。
僕のコンタクト・グループのマーティンは、軽度の知的障害をもっているが、昼食のとき、よく食事の批判をして、「健康によくないものしかない」、「おいしそうではない」という言い方をして、食事をすることを拒否することがある。教員アシスタントのドーテは、それに対して「嫌なら、たべなきゃいいでしょ。」とつっけんどんに彼に言ってほったらしておくことがあある。まわりがかわいそうに思って彼に言い寄ると、「ほっときな。いらないって自分でいっているんだから」と言って周りの人を威嚇する。ドーテとしては、マーティンの自立心を育ててあげようという好意的な思いなのかもしれない。
ところが、在宅ケアの人が彼と一緒に真ん中のバイキング式のテーブルに行ってあげると、彼は自分でいくつかの料理を皿にとって、テーブルに戻って何もなかったように食べる。どうしてか。それは、マーティンは、バイキング方式のテーブルだと混乱してしまうというのが本当の原因のようだ。人が多い、料理が多いなどから、何をとっていいかわからない。それを人に言うのはいやだ。だから、時には「きらいなものばかし」という言い方で、取りに行くことを嫌がる。
自立や自己決定の問題は、複雑な層をもっている。単純に、「自分のことは自分で決める」という理解だけでは十分でないときがある。かと言って、本人の言っていることを無視して、勝手にこちらで良いと判断したことを押し付けることは、逆に相手の尊厳性を踏みにじることになる。余計なお世話だ。それは日本人に良くある親切の押しつけになってしまう。
それでは、自分で判断して決めることがうまく出来ない人に対して、どう対応したらよいのだろうか。ある人は、それは状況によって異なるから、具体的な状況の中で判断してあげるべきだ、という。しかし人まちまちだ。うまく判断してあげる人もいれば、出来ない人もいる。善い人に当たればよいが、うまく判断してあげることができない人に当たったら不幸だ。
どう対応したらよいか、基準がは っきりしている人たちがいる。プロの専門職の人たちだ。この人たちの基準は個人的な基準ではなく、プロとして、その専門分野における取り決めとしてある基準だ。最近の言葉では「職業倫理」と呼ばれている。
善い保育士とは何か。善い教員とは何か。そしてその延長線には、人としての倫理がある。善い人間とは、善い人生とは何か。ぼくは、最近それが何であるか、雀のような脳でいつも考えている。(これは法螺。本当は何も考えない時の方が圧倒的におおい。)"
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