ゆたかとエグモント
デンマーク エグモント教員片岡豊によるWEB日記
2005/12
01
体験的教育
昔の昔、デンマークに来てから1年そこそこのわかきし頃、借り部屋の安ベッドに仰向きになって自分の不幸を嘆いていたときがあった。ふと壁にかかってある絵を見たら、絵がくるくると回っているではないか。ああ、これはだめだ。とうとう頭がおかしくなってきたようだ。そこで、気を持ち直して、ノート帳を取り出し、自分が不満と思っていることを書き出すことにした。言葉ができない、背が低い、足が短い、彼女ができない、思いついたことを全部書いていった。A4の紙1枚にぎっしり書き込まれた。最後に、もう思いつくものがなくなって、まだないかなと、自分のお腹を見てみた。夏だったので上半身、裸だった。よーく見ているのだけれど、おへそが見えない。最後の項目として、へそがないこと、と書いて自分でも馬鹿らしくなって、笑い出してしまった。
デンマーク人は、「自分のへそを見る」という言い方に、自分のことだけしか考えないもの、という意味を持たしている。東洋ではへその下数センチの丹田に気の集まる身体の中心があると考えている。へそや丹田が身体の中心だという見方は共通だが、ここには異なった価値観が言い表されている。デンマーク人は「へそを見る」ことを、批判的にみている。他の人を考慮しないで自分だけのことを考える、という意味と同時に、自分の「身体」をも見下した考え方がここにはある。これは、西洋人の一般的な考え方を反映しているように思える。人間は精神と身体、理性と感覚からなっていて、精神や理性が人間の本質であり、身体や感覚はあまり信頼の出来ないものだと考えられている。西洋医学は、身体を単なる「肉体」として他の生物と同等にみることによって、発展してきた。自然科学から哲学まで、西洋思想は身体やそれに伴う感覚をあまり重要視せず、理性を中心として発展してきたと言っても大げさではないだろう。
これに反して、東洋では「身体」というものをとても重要視してきたと思う。あるいは、身体に密着した意識を大切にしてきたと言ったほうがよいかもしれない。東洋医学のつぼや経脈などはそのよい例だろう。
デンマークで生まれたフォルケホイスコーレは、グルントヴィの考えを取り入れて、「生きた言葉」に重きを置いてきた。言葉は、一方では理性に向かい、文字となって知識にいたるものと、他方、話し言葉として人々の感性に向かうものとがある。グルントヴィは詩人として、文学者として、神父として、言葉を感性に向けた。彼の言葉は、話し言葉となって、農民たちの感性を刺激し呼び起こす「ものがたり」として語られた。フォルケホイスコーレの特徴は、「体験的」な教育にあると僕は思う。ここで「体験」とは何かをさらに詳しく考察せねばならないが、それは単に、「肉体」を使っての教育方法とは異なる。人は多様な学習能力を持っている。論理的な思考能力だけではなく、視覚、聴覚、などの感覚能力、社会性能力、集中能力、情操能力(emotional intelligence)etc.など多くの能力があることが指摘されている。これらの能力はすぐれて「身体」と密着したものと考えてよいのではないだろうか。だとすれば、フォルケホイスコーレの体験的教育の考え方は、東洋的な「身体」思想とそれほどかけ離れていないのではないだろうか。エグモント日本校への道が少し見えてきたような気がする。
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